大和の置き薬「三光丸」700年、幾度も転機


和漢胃腸薬「三光丸」は2019年に700年の節目を迎えた。「紫微垣丸」の名でつくられ始めたとされるのが1319年。その歩みをたどると、地場産業の盛衰が見てとれる。三光丸を生産している唯一の企業が医薬品と同名の三光丸(奈良県御所市)。前社長でシニアアドバイザーの米田徳七郎さんは33代目に当たる。製法は米田家の秘伝として受け継がれてきた。起源は鎌倉時代に遡る。米田氏は大和の豪族、越智氏の庶流だった。一党の医療班のような役割を引き受けていたようで、三光丸クスリ資料館の浅見潤館長は「越智氏とつながりのあった興福寺に作り方を教わったのではないか」とみる。奈良は古代から大陸の医薬が伝わり、薬草の産地でもあった。施薬を担う寺院もあり、製薬が産業として発展する素地があった。一族の秘伝薬である紫微垣丸が後醍醐天皇から新しい名前を賜り、三光丸となったのは1336年。戦国時代の公家、山科言継の日記にたびたび登場することから、1550年ごろには京都向けに売られていたとみられる。江戸時代になると販売モデルが確立する。顧客に薬を預け、定期的に使った分だけ補充して代金を回収する「先用後利」だ。現代も置き薬(配置薬)として続いている。売薬といえば富山が有名だが、大和には西大寺起源の「豊心丹」、修験道と関わりのある「陀羅尼(だらに)助」といった薬があり、大和も富山と同時期に販路を拡大した。近畿大学の武知京三名誉教授は「藩の保護で発展した越中富山に対し、大和は民間ビジネスとして定着したのが特徴」と話す。三光丸の販売は当初、親族や旧家などに託されていたようだが、売薬は現金収入を得る手段として大和盆地南部一帯に広がった。明治維新後は西洋薬を重視する政府の政策に業界全体が対応を求められた。三光丸の「中興の祖」ともいえるのが31代目の徳七郎虎義だ。東京から呼び戻され、経営者として手腕を振るった。1899年に配置薬事業者を「三光丸同盟会」として組織化した。別に「三光団社」という拡張部隊があり、全国で開拓した得意先をリストにして販売参入希望者らに分譲する。システム化した仕組みが奏功し、三光丸は売り上げを伸ばしていく。虎義は海外展開にも取り組んだ。中国東北部や朝鮮半島などに進出した。蔵からは英語の効能書きや、ヒンディー語などに翻訳した領収書も見つかっている。だが、米国行きは体調を崩して取りやめに。虎義の次にあたる32代目が若くして戦死したこともあり、社業は苦戦した。三光丸の販路は現在もほぼ配置薬のみだ。過去には新薬を手がけたこともあったが、33代目の徳七郎さんが生産を三光丸に集約した。2014年には34代目の豊高さんが社長を継いだ。一部の薬局で販売を始めたほか、ベトナム輸出も計画するなど、会社は幾度目かの転機を迎えている。インターネット通販の普及などを受け、配置薬のビジネスモデルは急速に色あせている。奈良県の統計では、高度成長期に5000人以上いた配置従業者は500人以下に減った。県製薬協同組合に加盟する医薬品メーカーも1960年代に200社近くあったが、現在は約50社にとどまる。「配置で稼いだ家の子は継がずに医者になってしまう」(徳七郎さん)。この話はほかの業界にも当てはまるのではないか。不透明な時代にファミリービジネスが支える地場産業の承継の難しさを物語る。(岡田直子)

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