戦争経験が出発点、人間味あふれる「昭和の政治家」共産党で衆院9期、死去の寺前巌さん


【共産党衆院議員を9期28年務め「京都の共産」の顔として知られた寺前巌(てらまえ・いわお)氏が6日、京都市内の自宅で死去した。94歳。】柔和な笑顔と張りのある野太い声で、人を引きつけた寺前巌さん。人間味あふれる昭和の政治家だった。1926年に北海道夕張市で生まれ、国鉄機関士だった父の異動で京都へ。京都青年師範学校(現・京都教育大)に進んだが、在学中に学徒動員で海軍予備学生隊に入隊。現在の広島県大竹市で終戦を迎えた。復員後は京都市立中で数学教師として教壇に立ったが、戦争の経験と記憶が「教え子を戦場に送ってはいけない」と政治家を志すきっかけになった。
 52年に共産党に入党し、59年に京都府議に初当選。蜷川虎三知事の革新府政のもとで2期務めた後、69年の衆院旧京都二区に立候補。トップ当選で初戦を飾った。
 1期目には、人工透析が必要な患者の家族が「お金がなく、母の命が縮まるのを見ているしかない」と記した新聞の投書を読んで、公費負担の導入へ奔走。厚生省(当時)を説き伏せるため、京都大へ勉強に通った。後の難病支援にもつながり、「福祉の寺前」として名をはせた。
 86年衆院選で1度落選するが、中選挙区時代は8回の当選中5回でトップ当選を果たし、小選挙区になって初めての96年選挙でも京都3区で勝利するなど、選挙には強かった。
 「ほんま、腹立ちますわな」「みなさん、そうと違いまっか」。くだけた関西弁に大きな身ぶりを交えた「寺前節」は、党派を超えて幅広く親しまれた。蜷川府政下でともに府議として与野党で相対した野中広務元官房長官とは、互いに国政に転じてからも「骨のある政治家」と認め合う間柄だった。
 2000年に政界を引退した後も、地元の党公認候補の応援演説に駆けつけるなど大きな存在感を示した。時折、本紙がコメントを求めると、「今の政治家は理念があらへん」と、「小さくなった政治」に苦言を呈した。
 寺前氏が長年務めた党国対委員長のバトンを託された穀田恵二衆院議員(比例近畿)は「とても気さくな人柄で、東京から京都の選挙区に帰ると支持者の家を裏口から訪ね、『どないしてる?』と声をかけて回っていたのを覚えている。とことん庶民の気持ちが分かる人だった」と振り返る。
 「現場主義を貫いた寺前さんには、いろんなことを教えていただいた。『政治を国民の手に』という信条を引き継いでいきたい」と大先輩の訃報に誓った。

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