新規重水素化触媒反応を開発


2022年7月20日

新規重水素化触媒反応を開発 ―医薬品への直接重水素導入を達成―
 
概要
 京都大学大学院薬学研究科 中寛史 准教授、糸賀萌子 同大学院修士課程学生、山西雅子 同大学院修士課程学生(研究当時)、竹本佳司 同教授、岐阜大学工学部 宇田川太郎 助教、同志社女子大学薬学部 前川京子 教授、小林文音 同学部生らの共同研究グループは、医薬品などの複雑なアルコールに含まれる水素を重水素へと効率的に置き換える方法の開発に成功しました。
 医薬品の有効成分に含まれる特定の水素原子を重水素で置き換えた重医薬品は、体内での代謝に対する安定性が高いため、少ない用量で長く効き、副作用も少ない優れた薬として臨床応用への期待が高まっています。医薬分子に含まれるヒドロキシ基 α 位の炭素−水素結合は代謝による切断を受けやすい位置であるため、重水素化の魅力的な標的部位ですが、ヒドロキシ基 α 位のみを重水素化した医薬分子の合成は困難でした。
 この問題に対して本研究では、機能性含窒素配位子をもつイリジウム錯体触媒によって、医薬品を含む幅広い種類のアルコールを、重水を用いて医薬品などの複雑なアルコールに含まれる水素を重水素へと効率的に置換できることを明らかにしました。従来とは異なり、医薬品に含まれる配位性官能基の影響を受けることなく、ヒドロキシ基 α 位を優先して重水素化できます。この方法によって数種の医薬品や天然物の効率的重水素化も可能となりました。
 今回、医薬品を含めた複雑なアルコールの直接重水素化技術を確立したことで、様々なアルコールに直接重水素を導入することが可能になりました。これにより、医薬品を含めた機能性有機分子が示す本来の性質を損なうことなく、耐久性のみを上昇させる分子創出の可能性が大きく広がりました。
 本成果は、2022年7月20日(現地時刻)に英国の国際学術誌「Chemical Science」にオンライン掲載されました。

 
図:本研究のイメージ
1.背景
 重水素 (2H, D)(1) は天然に存在する安定な水素同位体であり、その質量差と量子効果から炭素−重水素結合 (C−D 結合) の切断には炭素−軽水素結合 (C−1H結合) の切断に比べ大きなエネルギーを要します。この、切断されにくい C−D 結合の特徴を利用して、医薬品の有効成分で代謝を受ける箇所の水素を重水素で置き換えた重医薬品(重水素化医薬品、重薬)(2)の開発が進んでいます。重医薬品はもとの医薬品と比べて体内での代謝に対する安定性が高いため、少ない用量で長く効き、副作用も少ない優れた薬として臨床応用への期待が高まっています。実際、2017年には FDA から重医薬品が新薬として承認されており、2022年現在も10 種類以上の候補化合物について臨床試験が実施されています。
 
図1 世界で認可•市販されている重医薬品
 
 医薬分子に含まれるヒドロキシ基 α 位(3)の炭素−水素結合 (C−H結合) は代謝による切断を受けやすい代表的な位置であるため、重水素化(4)の魅力的な標的部位となっています。しかしながら、これまでヒドロキシ基 α 位のみを重水素化した医薬分子の合成には高価な重水素化試薬を利用した多段階合成を必要とするため、医薬分子に含まれるヒドロキシ基 α 位に対して効率的に重水素を導入することは困難でした。
 この問題を解決するために、私たちは医薬分子の直接的な炭素–水素結合 (C−H 結合) の重水素化反応に着目しました。医薬分子の直接的な C−H 結合重水素化は、2017年にプリンストン大学の MacMillan 教授らによって提唱された新しいアプローチで、同教授らはアミノ基 α 位に対して有効な方法を報告しています。有機物質に含まれるヒドロキシ基 α 位の直接重水素化反応としては、過去に遷移金属錯体触媒(5)や不均一系触媒(6)などの触媒(7)と、重水 (D2O) を組み合わせて用いた反応がいくつか報告されていますが、さまざまな官能基をもつ医薬分子に広く適用可能なアルコール(8)の α 位選択的な重水素化法は知られていませんでした。
 そこで本研究では、ロサルタンカリウムに代表される医薬分子のヒドロキシ基 α 位を、重水を使って直接重水素化する触媒系の探索研究に取り組んだところ、機能性配位子(9)(ビピリドナート配位子)をもつイリジウム触媒を用いれば、ロサルタンカリウムを含む幅広い種類のアルコールの直接重水素化が可能になることを明らかにしました。
図2 本研究の概要。イリジウム触媒を利用して、アルコールと重水から重水素化アルコールを合成できる。ロサルタンカリウムのような医薬品にも効率的に重水素を導入することができる。
 
2.研究手法・成果
 本研究では、2012 年に京都大学の藤田健一教授らによって開発されたイリジウム−ビピリドナート錯体に着目しました。この錯体は幅広いアルコールの脱水素化反応(10)を効率よく促進します。アルコールの脱水素化反応の素反応過程では、イリジウムヒドリドとカルボニル化合物(11)が生成することが提案されています。脱水素化反応ではこのイリジウムヒドリドが分解して水素ガスを発生してしまいますが、反応を閉鎖系で実施することで、イリジウムヒドリドが分解する前に重水と反応してイリジウムデューテリドを与え、イリジウムデューテリドがカルボニル化合物と反応すれば目的の重水素化アルコールが得られ、イリジウム触媒を再生すると考えました。
 実際、ヒドロキシ基 α 位が代謝部位であることが知られるロサルタンカリウムを標的化合物として検討した結果、このイリジウム−ビピリドナート錯体触媒を用いることで、ロサルタンカリウムに含まれるヒドロキシ基 α 位水素のみを効率的に重水素化できることが分かりました。従来の触媒とは異なり、イミダゾールやテトラゾールなどの、医薬品によく含まれる配位性官能基の影響を受けることなく、ヒドロキシ基 α 位の重水素化のみが進行します。同様の塩基性あるいは中性条件下、様々な第一級アルコールと第二級アルコールの重水素化も進行することが分かりました。この方法によって、医薬品や天然物の効率的な重水素化も可能となりました。
 
図3 イリジウム触媒と重水を利用した、ロサルタンカリウムに対する重水素の導入反応。 図4 本反応によって得られる、重水素が導入された医薬品や天然物。数字は重水素化率(%)。

 これまでこれらの重水素化されたアルコールは高価な重水素を含む還元剤などを用いて合成されていましたが、今回の方法では最も入手容易な重水を主な重水素源として合成できる点で、経済的に優れています。また、最終製品であるアルコールを原料として重水素化できるため、わざわざ重水素化アルコールを作るための新しい合成方法を考える必要がなく、既存の設備をそのまま使用することができます。
 さらに、実験と理論計算の結果から、このイリジウム触媒を用いたアルコールの重水素化反応が機能性ビピリドナート配位子とイリジウムの協奏効果を利用した 1) 脱水素化 2) 軽水素と重水素の交換 3) 重水素化の 3 段階で進行していることが支持されました。この結果は、新しい重水素化反応を開発する上での触媒の設計指針を与えるものです。
 最後に、実際に重水素化した医薬品である重水素化ロサルタンの代謝安定性を評価したところ、ヒドロキシ基 α 位が重水素化されたロサルタンは、重水素化されていないロサルタンと比較して、代謝に対する安定性が大幅に向上していることが分かりました。このロサルタンのヒドロキシ基 α 位が重水素化による代謝安定性に対する知見は今回初めて得られたものであり、今後の重医薬品を開発するにあたって重水素に由来する速度論的同位体効果(12)を活用するために重要な知見を与えるものと期待できます。
 
図5 (上) 代謝酵素によってロサルタンが代謝物に代謝される反応。(下) ロサルタンと重水素化ロサルタン(0.5 µM あるいは 10 µM) が酵素によって代謝される際に代謝物が生成する速度。グラフの値が小さいほど、代謝に対する安定性が高い。

3.波及効果、今後の予定
 今回、医薬品を含めた複雑なアルコールの直接重水素化技術を確立したことで、様々なアルコールに直接重水素を導入することが可能になりました。これにより、医薬品を含めた多くの機能性有機分子が示す本来の性質を損なうことなく、耐久性のみを上昇させる可能性が大きく広がりました。また、これまで主に sp2 炭素の重水素化に有効であると考えられていたイリジウム錯体も機能性ビピリドナート配位子と組み合わせることで、ヒドロキシ基 α 位を含めた sp3 炭素の重水素化が可能となったことから、機能性ビピリドナート配位子を利用した様々な金属錯体によって多様な有機物質の重水素化が可能になることが期待できます。これによって、今回の方法ではうまく重水素化できなかったアルコールや、アミンなどの官能基についても従来法とは相補的な重水素化技術を実現できることが期待されます。これによって、これまで不可能とされていた、ありとあらゆる有機材料の耐久性を合理的に高める技術開発が達成される可能性があります。
現在、学術変革領域研究(B)「重水素学」の窓口を通して、京都大学はこれらの成果を広く社会に提供すべく、技術提供や資料提供を進めています。(重水素学 URL: https://deut-switch.pharm.kyoto-u.ac.jp/
 
4.研究プロジェクトについて
 本研究は、科研費助成金学術変革領域研究(B)「重水素学」(20H05739, 宇田川太郎; 20H05740, 中寛史; 20H05741, 前川京子)、科研費助成金基盤研究 C(21K04991, 宇田川太郎)ならびにAMED-BINDS 「精密合成技術に基づくハイブリッド型ニューモダリティ創製の創薬支援」(竹本佳司)の支援によって実施されました。
 
<用語解説>
(1)重水素:質量数 2 の水素の安定同位体です。Dあるいは2Hと表記されます。天然存在する水素のうち、0.02 % が重水素であり、残りの 99.98% はほぼ軽水素 (1H) です。化学では反応機構研究や分光学的研究に用いられます。
(2)重医薬品(重水素化医薬品、重薬):重水素で標識された医薬品のことです。医薬分子で代謝を受ける部位の C−H 結合を、より安定な C−D 結合に置換することで代謝を遅らせることができます。薬が安定して効く時間が延びるため、薬をのむ回数を減らし、副作用も抑えることができます。そのため、患者に負担をかけない、安全な治療法を提供できます。
(3)ヒドロキシ基α位: ヒドロキシ基(OH基)が直接結合している炭素原子の位置のことを指します。その隣の炭素をβ位、そのまた隣の炭素をγ位、というように呼びます。
(4)重水素化:狭義では不飽和化合物に重水素 (D2) を分子に付加する反応のことを指しますが、広義では分子内に含まれる一部または全部の軽水素を重水素で置き換えるなど、分子の中に重水素原子を導入する反応を指します。今回は広義の意味で重水素化という言葉を使っています。
(5)遷移金属錯体触媒:遷移金属原子と複数の原子または原子団(配位子)とが結合して形成した分子を遷移金属錯体といいます。これを化学反応における触媒としても用いるときに、遷移金属錯体触媒と呼びます。配位子は色々な構造を設計することができるため、触媒活性や反応の選択性を緻密に制御できる点が特徴です。
(6)不均一系触媒:反応物とは異なる相の触媒のことを不均一系触媒といいます。通常、有機合成では反応物は液相あるいは気相に存在するため、固相にある固体触媒のことを不均一系触媒と呼びます。反応物が不均一系触媒の表面に接近したとき触媒反応が起こります。
(7)触媒:反応の前後で変化しないで化学反応を促進する物質のことです。反応溶液に触媒を添加することによって、通常は進行しない条件でも化学反応を促進することができます。反応した後、触媒は元に戻るため、触媒は一分子で複数回の化学反応を促進することができます。
(8)アルコール:炭化水素の水素原子がヒドロキシ基で置換された化合物のことを指します。ヒドロキシ基α位に二つ以上水素原子が結合しているアルコールを第一級アルコール、ヒドロキシ基α位に一つだけ水素原子が結合しているアルコールを第二級アルコールと呼びます。一般にアルコールと呼ばれるエタノールは第一級アルコールの一種です。
(9)機能性配位子:触媒反応過程において、その化学構造を変化させながら触媒機能を発現するために金属と協働して働く配位子のことを指します。
(10)脱水素化反応:有機分子から水素分子 (H2) が脱離する反応のことを指します。水素化反応の反対の反応であり、有機分子を酸化する反応の一種です。例えば第一級アルコールを脱水素化するとアルデヒドやカルボン酸、エステルなどを、第二級アルコールを脱水素化するとケトンを、それぞれ得ることができます。
(11)カルボニル化合物:炭素-酸素二重結合 (C=O 結合) をもつ化合物の総称です。アルデヒドやケトンなどの有機化合物が該当します。
(12)速度論的同位体効果:同位体を含むことによって反応の速度に変化が生じる効果のことです。同位体を含む結合の開裂や生成が起こることによって生じる効果を一次同位体効果、同位体を含まない結合の開裂や生成が起こることによって生じる効果を二次同位体効果と呼びます。今回、重水素化されたロサルタンで代謝反応速度に大きな違いが見られている原因は一次同位体効果によるものと考えられます。
 
<研究者のコメント>
 医薬品の重水素化は2017年に始まったばかりの新しい研究領域です。あらゆる医薬分子に水素原子が含まれていることを鑑みれば、これらの水素を合理的に重水素に置き換えることで医薬品の機能を最大限に発揮することが期待されます。今後も私たちは重水素で分子設計を変える「デュースイッチ(Deut-Switch)」研究を進めます。詳しくはこちらをご覧ください:https://deut-switch.pharm.kyoto-u.ac.jp/ (中)
 
<論文タイトルと著者>
タイトル:Iridium-Catalyzed α-Selective Deuteration of Alcohols.(イリジウム触媒を用いたα位選択的なアルコールの重水素化反応)
著  者:Moeko Itoga, Masako Yamanishi, Taro Udagawa, Ayane Kobayashi, Keiko Maekawa, Yoshiji Takemoto and Hiroshi Naka
掲 載 誌:Chemical Science DOI:https://doi.org/10.1039/D2SC01805E

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