「あげるわよ」母がくれた腎臓 死を覚悟した記者の移植医療ルポ


私には腎臓が三つある。生まれ持った二つは機能していない。命綱は残りの一つ。母が「生きなさい」と、私にくれた。日本では成人の8人に1人が慢性腎臓病とされる。とても身近な疾病だ。腎臓は重篤な状態になると、自然に治ることがない。最後の選択肢は、人工透析か腎移植かの二択となる。私自身、気づいた時にはもう遅かった。そして、何も知らなかった。家族からの提供がなければ、腎臓移植は14年以上待たなければならないこと。その間に命を落とす人が、大勢いること。「見えづらい重度障害」の当事者になると、日常のあらゆる場面で生きづらさに直面すること。腎臓は移植手術全体の7割を占め、「最も身近な移植医療」ともいえる。手術から4年。現在は移植医療の取材に力を注ぐ私の、自戒を込めた体験記を読んでいただきたい。発病もその後の経過も、あまりに急だった。39歳になったばかりの2016年の夏、足がむくみ始め、その後半年足らずで体重が40キロも増えたのだ。当時は名古屋市の中部本社でスポーツ取材を担当。2歳年上の妻と当時小学生の娘を川崎市に残して単身で赴任していた。父と祖父が糖尿病で、自身も28歳の時に一度発症していたが、当時の体重は75キロ(身長179センチ)で、医師も「若く、太っていないのに発症したのは、遺伝以外にあり得ない」と首をかしげた。その後も75キロ前後を維持し,体調もよかったのだが……。17年3月、115キロと雪だるまのように膨らんだ体を引きずりながら名古屋市内の病院に向かった。だが、医師に「腎機能が悪化し、尿として出せない水分が40キロたまった状態。重篤で、面倒をみられない」とさじを投げられた。人生の終わりを悟って泣き崩れた。川崎市の自宅に近い日本医科大学武蔵小杉病院(川崎市中原区)へ転院し、下された診断名は「糖尿病性腎症による慢性腎不全」だった。「人工透析を視野に入れる必要があります」。担当医の言葉に頭が真っ白になった。腎機能は一度低下すると、もう元には戻らないのだ。体にたまった水分40キロ分を治療で抜いてもらい、1カ月半で退院できたが、体重は66キロとなり、あばら骨が浮き出た。腎性貧血による立ちくらみで体に力が入らず、目まいと耳鳴りも強烈で、ほぼ寝たきりになった。17年11月、私は座ることさえしんどい状況で強引に仕事へ戻った。慢性腎不全が判明した3月から休職していたが、医療費はかさむ一方で、生きるためにやむを得なかった。東京本社(千代田区)に転勤して編集補助の仕事を担った。しかし、職場でも意識がもうろうとし、電話の転送すら失敗した。しかも、腎機能は悪化の一途をたどった。「人工透析も間近」そう覚悟した時、局面が変わる。18年4月、主治医が代わった。新たな担当医、大塚裕介医師が告げた。「人工透析を経ずに腎臓を移植する『先行的腎移植』を考えてみてはどうですか」初耳だった。人工透析より予後がよく、仕事をする私にとって1日約4時間、週3回の人工透析を避けられる利点も計り知れない。しかし、私は病気の責任を自分で取ると決めており、「透析にします」と諦めた。18年10月、腎機能を表す数値が15%を切り(正常値は90%以上)、診察に妻の同行を求められた。生体腎移植について説明を受けた妻は、大塚医師に告げた。「私、ドナー(臓器提供者)になるつもりがあります」血の気が引いた。自分のせいで、妻の人生まで変えるわけにはいかない。私は慌てて生体腎移植を拒み、亡くなった方から腎臓の提供を受ける献腎移植を望んで、勧められた聖マリアンナ医科大学病院(川崎市宮前区)腎移植外来の受診を決めた。帰り際、私は妻に「腎臓をもらうつもりは、一切ない」と言い切った。しかし、妻は静かに、だが断固として言った。「移植は娘のためよ。あなたのためじゃない」返す言葉も、立場もなかった。日本では21年、年間1773例の腎臓移植が行われた。「現代病」といわれる慢性腎臓病を含め、いつ、誰が直面してもおかしくはない。日本臓器移植ネットワークに登録する人は約1万6000人。そのうち腎臓移植希望者は約1万4000人を占め、平均待機年数は14年を超える。しかし、私の血管は糖尿病で弱り果て、長期の人工透析に耐えられないという。しかも担当医はドナー候補として、名乗り出た妻ではなく、67歳の母を望んだ。腎臓が一つになると、腎機能は6~7割ほどに落ちる。母の方が妻より人生が短いと想定され、術後の人生を考えると“適役”ということだった。日本移植学会の倫理指針でドナーとして認められるのは、レシピエント(移植を受ける人)の6親等以内の血族と、3親等以内の姻族(配偶者の親族)、かつ成人だ(例外あり)。聖マリアンナ医科大学病院を受診した翌日、神奈川県横須賀市の実家を訪ねると、母は語気を強めて言った。「あげるわよ。腎臓。なんでもっと早くに言わなかったの。奥さんと娘のために生きなきゃだめでしょ。腎臓なんて二つあるんだから、1個なくなったって平気よ!」生体腎移植に向け、動き出した。私は罪悪感と戸惑いで頭を抱え続けたが、傷ついた腎機能には幾ばくの猶予もない。それでも、ギリギリの状態で各種検査を乗り越えた。19年8月7日、手術前日。とうとう母が入院した。私は最後に尋ねた。「腎臓をもらって本当にいいの?」母は穏やかな表情で言った。「いつまで同じ所に立ち止まっているの。あなたは家族と生きていくんだから、働かなきゃだめでしょ。現実を見なさい」母の淡々とした物言いは、親に徹しきれない我が子を静かに諭しているようだった。手術は無事、成功した。母は1週間足らずで退院し、私も8月末に退院できた。そして、生体腎移植手術から23年8月8日で4年がたった。母がくれた腎臓は今もなお順調に機能してくれている。母の執刀医を務め、その後私の主治医となってくれた移植外科の名医、丸井祐二医師のおかげで、腎機能は40~50%で安定した。72歳となった母も元気だ。「生き直す」チャンスをもらった私だが、もう一つ、大きな変化があった。検査や入退院を繰り返す中、「身体障害者手帳」を取得していた。等級は最も重い1級で、外見からはわかりにくい「内部障害」の一つだ。厚生労働省の調査によると、身体障害者の総数は約436万人で、うち内部障害者は100万人を超えているとみられる。179センチ、58キロの私は肩幅も広く、車椅子に乗っているわけでもない。見た目は健常者と変わらず、重度障害者と告げると驚かれることが多い。しかし、腎機能が40%ほどの体ゆえ、突如として体調を崩すことも少なくない。なので「ヘルプマーク」をカバンにつけている。内部障害やがんなどの難病をはじめ、外見だけでは分からない苦しみを抱え、助けや配慮が必要なことを知らせる赤地に白ハートのマークだ。しかし、現実は厳しい。優先席に座っているとにらまれる。満員電車で優先席の前に立っていても、目の前の座席の乗客と目が合うなりうつむき、眠ったふりをされる。「信じてもらえないのなら……」。社会の冷たい視線に耐えかね、ヘルプマークを外した時期もある。こんな経験は私だけなのだろうか。内部障害者らで作るNPO法人「ハート・プラスの会」の鈴木英司代表理事に尋ねた。「倉岡さんのような経験を、大半の内部障害者の方は大なり小なりしています。残業を断れないなど職場の無理解に悩んだり、就職できなかったりと仕事の悩みも尽きません。病気で迷惑をかけているとの思いから我慢をしてしまう人が多いのです。周囲も障害が見えないから忘れがちになる。障害者雇用促進法は障害者への配慮義務を事業主に課していますが、理解が進んでいるとは言いがたいです」鈴木代表理事の話は、内部障害者が置かれている脆弱(ぜいじゃく)な社会的立場を言い当てていると感じる。私たちは障害者でありながら、障害者とは見てもらえない。健常者と障害者の中間、言わば“グレーゾーン”に漂っているような感覚がある。内部障害者は“出来の悪い健常者”ではない。見えないからこそ、知って、理解してほしい。同じ社会で生きる私たち内部障害者の切なる願いだ。もし、電車やバスの優先席にヘルプマークを付けた人が座っていたら、奇異の目を向けず、普段通りに接していただきたい。つらそうに立っていたら、一声かけてくださるとありがたい。記者として復帰した私は、自らの経験と実感をもって臓器移植取材をライフワークとしている。「再起」へと導いてくれたのは、術前からお世話になっている丸井医師だった。術後の人生についての不安を口にする私に、穏やかな表情で、目をまっすぐ見つめて言ってくれた。「移植を受けられる方は恵まれています。皆さん、与えられたチャンスを生かして、体に合わせた自分らしい生き方を模索されています。倉岡さんも『新たな記者像』を確立するといいのではないでしょうか」目からうろこが落ちた。「現実を受け入れ、自分だからこそ書ける原稿を書こう」 。初めて前向きになれた。この言葉は今も、道しるべとなっている。一方で、遅々として進まない日本の臓器移植の現状も、身をもって知った。国内の脳死下での臓器提供数は23年10月に1000例目となった。それを可能とした臓器移植法が1997年に施行されてから26年かかった。移植が間に合わず、待機中に命を落とす患者も少なくない。私もそうなる可能性が十分にあった。「記者としてできることがあるのではないか」そんな思いから、私は臓器移植取材を始めた。事故で亡くなった女性の臓器提供を決断した家族、国内の臓器提供数の少なさから海外渡航に託した女の子の家族、臓器移植と関わりが深い移植医や救急医、脳外科医……。声に耳を傾けるたび、臓器移植が置かれた立場の厳しさを再認識する。「日本だから(移植を受けられず)助からない」「日本だから臓器を提供できなかった」――。そんな状況を変えるべく、原稿を多く書いて社会に問い続けようと気力に満ちている。私にとって腎移植は最良の選択肢だったと、今は言える。ただ、母の体にメスを入れ、生涯にわたる健康上のリスクを背負わせてしまった事実は消えない。しかも家族を混乱の渦に巻き込んだ。生体腎移植は決して美談ではない。母は手術前の検査で通院する際、常にポータブルCDプレーヤーを携え、病院の待ち合いでも、イヤホンで米国のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」の主題歌を繰り返し聞いて鼻歌を奏でていた。そのわけを知ったのは、移植手術から4年2カ月がたった23年10月。母に「記者として」向き合った時だった。母が不意に口を開いた。「ラ・ラ・ランドを聞いていたのはね、自分を奮い立たせるためだったの。『頑張るぞ!』『怖くないぞ!』って」当時の母は「(生体腎移植を)全然怖くない」と言い張った。何度聞いても、強硬に。注射も怖がる痛がりの母ゆえ、強がりと分かってはいたが……。母は、私の慢性腎不全判明当初、動揺し、大泣きする妻から電話を受けたことも告げた。「大丈夫、って励ましたのよ。死ぬわけがないからって」母は取材後、言った。「みんな頑張ったのよ。だから、一樹は人生を全うして、家族と笑顔で暮らしなさい。私はそのためにドナーになったんだから」私は取材後に自室へ駆け込み、泣いて、その言葉の意味をかみしめた。母の覚悟と妻、そして家族の思いを。残りの記者人生を、臓器移植取材に尽くすと決めている。取材、執筆した記事が、どこかの、誰かの命をつなぐ後押しになる。そう信じるから。「一樹が記事をたくさん書けば、きっと苦しんでいる人を救うことができる。腎移植を経験した君にしかできない仕事よ。その姿を見せて。私もうれしいから!」「もらった腎臓」で生きる私の使命感に、母の言葉が火を付けてくれる。【毎日新聞医療プレミア編集グループ・倉岡一樹、46歳】

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