核酸医薬で遺伝難病に挑む(上) たった一人のための薬を


私たちの体は、30億文字のDNAの遺伝子情報から作られています。その中のたった1カ所や数カ所の文字列に異常があるために、重い病気に苦しみ、命の危機がある患者もいます。こうした患者それぞれの遺伝子の異常に合わせた、DNAやRNAを人工的に作り、薬として使う「核酸医薬」という新しい医療への挑戦が始まっています。 (森耕一)遺伝情報を記録するのがDNA(デオキシリボ核酸)、その情報を細胞内のいろいろな場所に伝えるのがRNA(リボ核酸)です。核酸医薬とは、DNAやRNAそのものを薬として使おうという考えです。「mRNAワクチンの普及で、核酸医薬を取り巻く雰囲気が大きく変わった」。日本核酸医薬学会長を務める東京医科歯科大の横田隆徳教授は、期待の高まりを感じています。体は、細胞が持つDNAの情報に基づいてタンパク質を作ります。核酸医薬はこのDNAやRNAそのものに働き掛けることで、より根本の部分で病気を治すことを目指します。例えばコロナウイルスのmRNAワクチンもその一つ。ウイルスの部品の設計図を書き込んだRNAを作って注射します。すると、RNAから情報を受け取った体の細胞が設計図通りにこの部品を作り、免疫がつきます。核酸ワクチンは三年前には研究段階の技術でしたが、一気に世界に広がりました。核酸医薬は、DNAの全遺伝子情報を高速で読み取り、遺伝子配列を自在に編集したり、異常遺伝子を抑制したりする技術が発展したことで、急速に成長しつつある分野です。作りたいDNAやRNAの文字配列が決まれば、数日で設計し、数カ月で薬やワクチンができます。この素早さが核酸医薬の強みです。ウイルスの遺伝子が変異して一部変わっても、RNAを書き換えて対応できます。変異株対応ワクチンの接種も近く始まります。核酸医薬は、難病の治療でも成果を上げ始めています。病気の多くは、遺伝子の異常だけで起こるわけではありませんが、たった一カ所の遺伝子の異常で重要なタンパク質が作れず、命に関わるような「遺伝病」が存在します。その異常のある部分に核酸医薬を届け、遺伝子の働きを修正できるのです。二〇一七年には、脊髄性筋萎縮症という希少難病の核酸医薬「スピンラザ」が日本で承認されました。遺伝子異常によって、脊髄の中にある、筋肉を動かすための神経細胞が変化し、筋力が低下する病気で、症状が重いタイプでは、赤ちゃんのうちに死亡するケースが多い難病です。スピンラザは、この異常がある部分の遺伝子にくっついて、正常に読み取られるようにします。横田教授は「治療しなければ一歳を待たずに亡くなった可能性が高い子が、歩けるまでに成長するような効果が報告されている」と説明します。さらに一歩進んで、米国では、たった一人に現れた遺伝子異常を核酸医薬で治療する試みも始まっています。従来は「原因不明の難病」とされた病気でも、検査技術の進歩で原因となる遺伝子異常が見つかるケースが増えています。八月に都内で開かれた核酸医薬学会のシンポジウムで、米ボストン小児病院の中山東城医師は、ただ一人の患者のための核酸医薬の世界第一例目とみられる治療例を報告しました。治療の対象となったのは遺伝子異常による重い神経の病気の少女ミラさん。三歳ごろから症状が現れ、失明して立ち上がるのも難しく、頻繁にてんかんの発作も起こるようになりました。医師団は彼女の遺伝子の異常を突き止め、その部分に合わせて働く核酸医薬「ミラセン」を作りました。中山医師らは一七年一月に患者に出会い、三月に遺伝子異常と診断。翌年一月に薬を投与しました。「診断から十カ月の早さで投薬できたのは核酸医薬の機動力があるからこそ」と語ります。地元紙によると、ミラさんは発作の回数が減り、チューブからではなく自力でペースト状の食事を取れるようになりました。ただ、既に症状が進んだ七歳での投与だったこともあり、昨年亡くなりました。通常、薬の投与には十年近い研究と臨床試験が必要です。このケースでは、他に治療法がなく、治療しなければ亡くなる可能性が高い状況で規制当局と医師団が協議し、動物実験などで一定の安全性が確かめられた段階での投薬が認められました。横田教授は「遺伝難病の患者の一部は、同様の核酸医薬が作れる可能性がある」と話します。ただ、日本ではこうした「一人のための核酸医薬」の投与は「ルールがなくできない」といいます。そのほかにも安全性の確保や高額な費用など、核酸医薬の「たった一人」への応用には、課題が山積していますが、横田教授は「神経難病に苦しむ目の前の患者を救いたい」と語ります。後編では、こうした遺伝難病の患者家族や、治療に携わる医師の思いと課題を紹介します。

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