医師会に消された「家庭医」 法定化されるのは「かかりつけ医」/浅川澄一氏


「かかりつけ医」機能が医療法の中に明文化され、今夏には国会審議に入る。社会保障審議会医療部会が12月28日にまとめた「医療提供体制の改革に関する意見」で法改正を明記した。2019年の厚労省の省令改正でかかりつけ医の機能として「身近な地域における日常的な医療の提供や健康管理に関する相談等を行う機能」と定義されていたが、これを踏まえて法定化する。動いた武見太郎正式な法律用語となるかかりつけ医だが、38年前の厚生省は「家庭医」の実現を目指していた。日本医師会(日医)の「天皇」とまで言われた武見太郎会長も家庭医の養成に力を入れていた。「家庭医は、患者の名前を聞いただけでカルテに書かれている事柄を始め、その家庭環境や家族の様子なども思い出せるようになっていた」「家庭医制度、主治医制度は疾病と健康の地域性を知悉し、広域的な地域文化についても理解を持ち、広範で多様な立場から、健康の維持、増進を考える人たちであるが、今ではそのような医師の養成は、どこの大学でも行われなくなった」さらに「医学が進歩して細分化したことが、逆に地域医療荒廃の原因になるという逆転現象をもたらした」と分析。1976年の著書「医心伝真」の叙述である。武見の提言を受けて厚生省は、米国の大学病院などへの3年前後の研修制度を作り国立大学病院の医師を1980年から派遣し始める。「武見プロジェクト」によるプライマリケア指導医研修と呼ばれた。そして85年には「家庭医に関する懇談会」を設けて論議を深め、帰国した医師もその委員に名を連ねた。2年後には「家庭医の機能10項目」を公表した。ところが、武見が82年4月に医師会長を退き、翌年末にがんで亡くなると日医の姿勢は豹変する。同懇談会委員の松石久義日医常任理事は「家庭医の狙いは医療費削減」と強い反対論を展開。吉村仁厚生省事務次官の「医療費亡国論」への反発もあった。武見会長の辞職10年後の1992年に就任した村瀬敏郎会長の時にかかりつけ医を前面に押し出す。「村瀬のいう『かかりつけ医』とは国民が選んでかかりつけ医にしている医師という意味で、村瀬は厚生省に『家庭医という言葉を使うな』と言っていた」「かかりつけ医という言葉を作った」。医事評論家の水野肇氏が2003年の著書「誰も書かなかった日本医師会」で記し、2年後の著書「誰も書かなかった厚生省」でも同様の内容を書いている。かかりつけ医を「発明」驚くべきことに、厚労省内では「家庭医」の言葉は禁句となり、同省内から完全に消えてしまった。今でも使わない。一変した空気を肌で感じた医師もいる。ニューヨーク州立大学家庭医療科で学び、88年に帰国した武藤正樹医師(日本医療伝道会衣笠病院グループ相談役)は「家庭医を学んできたと公言できなかった。以来ずっと隠れ家庭医です」と苦笑する。村瀬会長が家庭医に反対した理由は「家庭医としての実力がいまの開業医にないことをよく知っていたのである」と水野氏は同書で明かす。こうして家庭医構想は完全に消えてしまう。日医によるかかりつけ医「発明説」は、長野県の諏訪中央病院長だった今井澄医師も著書「理想の医療を語れますか」で記す。「家庭医構想を潰した日本医師会も、このままでよいとは考えていなかったようで、その後、『かかりつけ医』という言葉を発明しました」。「けんか太郎」と自称し、周囲に恐れられた武見は、家庭医を医師のあるべき姿として考え、その養成に厚生省と共に動いた。だが、国の制度とすることには反対だったようだ。英国を引き合いに、医療の国営化に反論し続け行政からの干渉を嫌った。家庭医とは米国のFamily Physicianの訳語である。すべての診療に精通した医師で欧州や豪州ではGP(General Practitioner)と言われる。地域に密着し、住民と普段から接している医師を表す用語としては、かかりつけ医より分かり易い。武見が想定した家庭医像を今、思い起こしてもいいだろう。浅川 澄一 氏 ジャーナリスト 元日本経済新聞編集委員1971年、慶応義塾大学経済学部卒業後に、日本経済新聞社に入社。流通企業、サービス産業、ファッションビジネスなどを担当。1987年11月に「日経トレンディ」を創刊、初代編集長。1998年から編集委員。主な著書に「あなたが始めるケア付き住宅―新制度を活用したニュー介護ビジネス」(雲母書房)、「これこそ欲しい介護サービス」(日本経済新聞社)などがある。

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