障害者スポーツ「勝負の年」 宮城の現場から


リハビリを起源とする障害者スポーツの最高峰、パラリンピック東京大会の開催が迫る。競技性は着実に高まる一方で、認知度や支える仕組みに課題も多い。2020年を飛躍の契機とすることはできるのか。宮城県内の障害者スポーツの現場を訪ねた。(報道部・奥瀬真琴)◎認知度向上へ体験教室企画 「ボイ、ボイ、あと4メートル」。スペイン語で「行け」を意味する掛け声がグラウンドに響き渡る。ゴール裏に立つガイドの指示で、クッション性のある布製の青い目隠しをした選手が力強くボールを蹴り、見事にネットを揺らした。 5人制ブラインドサッカーのクラブ「コルジャ仙台」は、仙台市宮城野区の県障害者総合体育センターを拠点に練習を積む。2018年日本選手権で男子チームが4強入りを果たすなど、実力は全国レベルだ。 東日本大震災後の12年に発足。5人から始まったチームは現在、選手とスタッフ計25人になった。活躍とともにスポンサーも増え、地元企業を中心に7社のロゴマークがユニフォームやアイマスクを飾る。 クラブ唯一の女子選手、鈴木里佳さん(29)=登米市出身=は女子日本代表で主将を務める。小中高の最前列で単眼鏡を使って授業を受けたが、体育だけは見学が多かった。本格的に運動を始めたのはクラブに入った4年前だ。 今年は障害者スポーツに注目が集まり、認知度を高める絶好の機会。東北各地で体験教室を開き、普及活動に余念がない。鈴木さんは「勝負の年。性別も年齢も関係なく興味を持ってもらいたい」と意気込む。 クラブは今年1月、未就学児から12歳を対象にしたサテライトチームを設立した。子どもの頃から運動に親しみ、恐怖感や苦手意識を持たせないようにするのが狙いだ。メンバーは3人。インターネットを通じて増員を目指す。 最年少の堺龍太君(7)=太白区=は手術で脳腫瘍を摘出した影響で視力がほとんどない。両親と一緒に2年前からチームに顔を出すようになり、サテライトの設立と同時に加入した。 「共働きで平日は外に出してあげられない。ここでは安全に走らせられる」。母の紀久子さん(38)はこう話し、龍太君を見守る。 ボールがピッチ外に転がると親やトレーナーが取りに行く。目が見えないことに伴うストレスを最小限に抑え、純粋に体を動かす楽しさを感じてもらう。 コーチの庄司知能(ともよし)さん(39)も元選手。視野の95%を失った今も、子どもの足音で動きを判断し、指導する。「障害のある子どももスポーツ選手を当たり前に目指せる世の中にしたい」。サテライトの中から日本代表を輩出するのが夢だ。◎指導者育成と施設整備課題 「怖い!」「なんで右に進むの?」。アイマスクを着用した歩行訓練に、参加者が次々に声を上げた。 2月下旬、多賀城市総合体育館で開かれた初級障がい者スポーツ指導員の養成講座。全3回の講習初日はアイマスクを着けた相手に言葉で具体的な指示を出す難しさを学んだ。 参加したのは20〜70代の25人。スポーツトレーナーを目指す専門学校2年佐藤望生(みう)さん(20)=仙台市宮城野区=は音を頼りに動く怖さを感じた一方で「体験して、障害者スポーツにポジティブな印象を持つことができた」と話した。 障害があっても安全に運動ができるように支援する障がい者スポーツ指導員。県障害者スポーツ協会によると、1月末時点の県内の初級指導員は405人。30年前の約10人から大幅に増えた。が、裾野を広げるにはさらに人数を増やす必要があると考える関係者は多い。 講師を担当したブラインドサッカークラブ「コルジャ仙台」の佐々木康明トレーナー(37)は参加者にこう呼び掛けた。「障害者に関わることをためらわないでほしい。目が見えない人、腕がない人も、サポートがあれば運動の楽しさを感じることができる」 障害者が地域の中で気軽に運動するには、環境の整備も欠かせない。 宮城野区の県障害者総合体育センターは、県内の障害者スポーツの中心地だ。障害者の利用料金は低く抑えられ、体育館を貸し切っても200円(午後1〜5時)。トイレはバリアフリーで使いやすい。 4カ月分の予約表を作る年3回の抽選会では、車いすバスケットボールの「宮城MAX」など約30団体の希望日が休日に重なる。毎週使いたくても、抽選に外れると活動日数は減る。 センター職員の遠藤貴紀さん(27)は「障害者が優先される施設なので、訪れる健常者にも理解がある。障害者が気を使わずに運動を楽しめるのが大きい」と集中の理由を語る。 体育館は1974年に建った。東日本大震災で剥がれ落ちた壁は修繕したものの、雨漏りするなど老朽化も進み、受け入れ態勢は限界に近い。 県障害者スポーツ協会の小玉一彦会長(66)は「パラリンピック後は一時的に競技人口の増加が見込まれる。熱が冷めないうちに環境を整えないと、障害者スポーツの大衆化にはつながらない」と指摘する。◎地域社会との交流の機会に 障害の区別や年齢に関係なく楽しめる障害者スポーツ。近年では外出やコミュニティーづくりのきっかけとしても広がりを見せる。 「毎日ずっと両手を見て、いつ見えなくなるのかばかり考えていた」。仙台市太白区の無職布施仁さん(69)は48歳の時、趣味のゴルフをしている最中にボールが見えなくなった。緑内障だった。 元々は大手生命保険会社の営業マン。64歳で退職後、膵臓(すいぞう)に腫瘍が見つかった。手術で体重は18キロ減り、社会人野球で鍛えた筋力はめっきり衰えた。今は視力もほぼ失った。 沈んだ気持ちが変わるきっかけになったのが、視覚障害者を支援するNPO法人アイサポート仙台との出会いだった。同法人が運営するジムなどに通うようになった。 布施さんが毎月通っているのが「スティックボール教室」。ゲートボールのスティックで鈴入りのボールを打ち、水の入った10本のペットボトルを倒して競う。特別な道具は不要で、車いすでも参加できる。 「運動を目的に外出の機会が増えた。最近は全盲の人の家族から日常生活の相談をされることもあり、自分の体験が必要とされることに喜びを感じる」と布施さん。スポーツを通して得られる社会とのつながりが充足感になっている。 東日本大震災の被災地では、45年前に筋ジストロフィーを患う子ども向けに考案された競技が広がる。 震災の津波で被害を受けた名取市美田園地区。2月下旬に同地区の集会所で開かれた卓球バレーの体験教室には「復興支援」の看板が掲げられた。 「上品な女性たちが、気が付くとむきになって参加してくれる」。主催する宮城卓球バレー協会事務局長の山内紀恵子さん(53)がうれしそうに言う。 いすに座りながら、ピンポン玉を長方形の木べらではじき、卓上で転がして打つ。いすから尻を離す反則が起きるたびに、会場は和やかな空気に包まれる。 参加した地元の千葉洋子さん(73)。主催するダンス教室やカラオケ大会の参加者は減りつつある。参加する側に回って「手軽に楽しめる健康維持活動として、今後の参考にしたい」と考えるようになった。 同協会は多い月だと6、7回、沿岸部の被災者を中心に体験教室を開く。山元町で開いた教室で参加した女性から「やっと笑えるようになった」と言われたことが忘れられないという山内さん。「運動で得られる充実感は何物にも変えられない」との思いで活動を続ける。

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