ポイント
・ 腸内菌叢の存在が大人の脳で新しく作られた神経細胞の正常な発達に必要であることを発見
・ 3種のプロバイオティクスで腸内菌叢の担う神経発達調節の役割を補えることを示唆
・ プロバイオティクスによって増加する血中代謝物はヒト神経幹細胞の分化と発達を促進
概 要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)バイオメディカル研究部門 波平昌一 研究グループ長、室冨和俊 主任研究員と、国立大学法人 東京大学大学院農学生命科学研究科 平山和宏 教授は、東亜薬品工業株式会社と共同で、腸内菌(腸内菌叢)が脳に果たす新たな役割を発見しました。
大人の脳が新しく神経細胞を作り出す「成体神経新生」と呼ばれる現象は、記憶や感情の調整に関わるとされています。われわれは、新たに生まれる神経細胞の正常な発達に腸内菌叢の存在が必要であることを発見しました。また、3種類のプロバイオティクスの摂取によって、成体神経新生において腸内菌叢が担っている役割を補えることと、神経細胞を作り出す神経幹細胞の数を通常飼育下のマウスよりも増やせることも発見しました。この成果は、プロバイオティクスが脳の健康維持に貢献できる可能性を示唆しています。
なお、この成果の詳細は、2024年12月16日に「STEM CELLS」に掲載されます。
下線部は【用語解説】参照
開発の社会的背景
成体神経新生は、大人になってからも脳が新しい神経細胞を作り出す現象のことです。哺乳類では、特に海馬という脳の領域で起こることが知られています。ここで新しく作られた神経細胞は、記憶や学習だけでなく、感情のコントロールにも関わるとされています。そのため、成体神経新生の異常が、アルツハイマー病や統合失調症、うつ病などの精神疾患の原因や進行に影響している可能性が指摘されています。
海馬の成体神経新生は、運動や食事、ストレスなどの外部環境に大きく影響されます。最近の研究では、腸内に存在する菌叢(腸内菌叢)が腸と脳をつなぐ「腸脳相関」を通じて、成体神経新生に影響を与えることが明らかになっています。しかし、腸内菌叢がどのような仕組みで成体神経新生を調節しているかについては、まだ完全には解明されていませんでした。
また、腸内菌として知られる乳酸菌(Enterococcus faecium T-110)、酪酸菌(Clostridium butyricum TO-A)、および、糖化菌(Bacillus subtilis TO-A)の3種類のプロバイオティクスの投与が、統合失調症患者の症状を緩和したという報告があります。しかし、それらのプロバイオティクスが実際に脳にどのような影響を与えるかについては詳細に解析されていません。
研究の経緯
産総研は、高次脳機能のメカニズム解明のための基盤技術の開発を目指し、ヒト由来の神経幹細胞の長期培養技術を確立しました(2016年3月28日 産総研プレス発表)。今回の研究では、この培養技術と、マウスの成体脳に存在する神経幹細胞の動態を明らかにする組織解析技術を組み合わせました。この技術の融合により、今回、腸内菌叢の存在が正常な成体神経新生を促す重要な鍵であり、いわゆる「キープレイヤー」として働く可能性があることを見いだしました。さらに、上記の3種類のプロバイオティクスのみで、腸内菌叢が担っているその役割を補うことができることも発見しました。
研究の内容
今回われわれは、成体神経新生における腸内菌の役割を明らかにすることを目指しました。そこで、特定の病原性微生物を保有しない通常飼育下のマウス「SPFマウス」と、全ての腸内菌を持たない「無菌マウス」を用意しました。それらに加えて、無菌マウスに上記の3種類のプロバイオティクスを定着させた「プロバイオティクスマウス」(以下「ProB3マウス」という)も用意しました。これらのマウスにおいて、海馬領域の神経細胞を生み出す神経幹細胞の数を調べました。その結果、ProB3マウスにおいて、神経幹細胞の数が他のマウスと比較して最も多くなっていることがわかりました(図1)。このことは、3種類のプロバイオティクスには神経幹細胞の増殖を促す効果があることを示しています。
さらに、神経幹細胞から作られたばかりの未発達な神経細胞の数を調べました。その結果、無菌マウスにおいては、未発達な神経細胞の数がSPFマウスと比較して増加していました。一方、長く分岐した神経突起を持つ発達した神経細胞の割合は、SPFマウスと比較して減少していました(図2)。このことは、無菌マウスにおいては、正常な神経細胞の発達が阻害されているため、未発達の神経細胞がSPFマウスよりも多く残されることを示唆していました。ProB3マウスにおいては、発達した神経細胞の割合はSPFマウスと同程度となっていました。このことは、無菌マウスで認められた神経細胞の発達阻害が、たった3種類のプロバイオティクスで解消されることを示唆しています。
われわれは、メタボローム解析という手法を用いることで、無菌マウスと比較して、ProB3マウスの血中で増加した代謝物を16種類同定しました(図3A)。その中には、マウスを用いた研究で、加齢や精神疾患などで衰えた脳機能を改善する効果があると報告されているテアニン、3-ヒドロキシ酪酸(以下「3-HB」という)、カルノシン、アンセリンが含まれていました。ヒト由来の神経幹細胞を用いてそれらの代謝物の効果を調べたところ、テアニン、カルノシン、3-HBが神経幹細胞から神経細胞への分化を促進することがわかりました(図3B)。さらに、アンセリンが、神経細胞の発達を促進することもわかりました。これらの結果は、3種のプロバイオティクスがそれらの代謝物の増加を介して、成体神経新生に影響を与えていることを示唆しています。また、これらの結果から、3種のプロバイオティクスは、マウスだけでなく、ヒトの成体神経新生も促す可能性があることがわかりました。
今後の予定
今回の研究から、3種類のプロバイオティクスの投与により、ヒトの成体神経新生に対しても促進効果がある可能性が示唆されました。近年、精神疾患モデルマウスや老齢マウスの成体神経新生の能力を促進させることで、加齢によって衰えた記憶力が改善したという報告もあります。今後は、成体神経新生の解析と合わせて、ProB3マウスの行動解析を行い、記憶力や不安様行動を評価することで、プロバイオティクスの脳の健全性維持への有効性を詳細に検討する予定です。
論文情報
掲載誌:STEM CELLS
論文タイトル:Combination of 3 probiotics restores attenuated adult neurogenesis in germ-free mice
著者:Masakazu Namihira, Nana Inoue, Yohei Watanabe, Takuto Hayashi, Kazutoshi Murotomi, Kazuhiro Hirayama, Naoki Sato
DOI:10.1093/stmcls/sxae077
用語解説
腸内菌(腸内菌叢)
ヒトの腸内には1000以上の菌種、約100兆個の菌体が存在すると考えられており、その様子をお花畑や叢(くさむら)に例えて「腸内フローラ」や「腸内菌叢(または腸内細菌叢)」と呼んでいます。「腸内菌」は宿主の腸内に生息している菌のことを指します。細菌分類学における腸内細菌科 (Enterobacteriaceae) との誤認を避けるため、本稿では「腸内細菌」ではなく「腸内菌」と表現しています。
成体神経新生
成体の脳で新しい神経細胞(ニューロン)が作られる現象です。これは特に記憶や学習に関わる「海馬」という脳の部分で起こります。かつては、脳の神経細胞は生まれた後には増えないといわれていましたが、近年の研究で、成人してからも新しい神経細胞が作られることがわかりました。このプロセスは、ストレスや運動などの要因に影響され、脳の健康や老化とも関連しています。
プロバイオティクス
アンチバイオティクス(抗生物質)に対して提案された用語で、「腸内フローラのバランスを改善することによって宿主の健康に好影響を与える生きた微生物」(出典:R Fuller, Probiotics in man and animals. J Appl Bacteriol, 1989)と定義されています。
神経幹細胞
神経幹細胞は、新しい神経細胞や、グリア細胞といった神経細胞をサポートする細胞を作る能力を持つ未分化な細胞です。神経幹細胞は、発達中の脳で多く見られますが、成体の脳の特定の場所、特に海馬や脳室下帯にも存在し、必要に応じて神経細胞やグリア細胞に変化します。これにより、脳の学習、記憶、回復に役立つ新しい細胞が供給されます。神経幹細胞は、自己複製と分化の能力を持ち、脳が柔軟に環境に適応する手助けをしています。
SPFマウス
「SPF」は、「Specific Pathogen Free(特定病原体不保持)」の略で、SPFマウスは、特定の病原体が存在しないように管理された環境で育てられたマウスのことです。これらの病原体には、ウイルス、細菌、寄生虫などが含まれ、SPFマウスはそれらの感染がないことが保証されています。SPFマウスは、免疫系や生理的な研究において、実験の正確さを保つために使われます。病原体が存在しないことで、感染や炎症の影響を排除し、標準的な条件下での研究が可能になります。SPFマウスは清潔な環境で育てられ、実験の精度や再現性を高めるために広く使用されています。
メタボローム解析
メタボローム解析は、細胞や体内で生じる「代謝物」を網羅的に調べ、どんな物質がどれくらいあるかを解析する手法です。代謝物にはアミノ酸、脂質、糖などが含まれ、これらはエネルギー生成や細胞の働きに重要です。この解析を行うと、細胞や組織の「代謝プロファイル」を知ることができ、健康状態、病気の進行、栄養の影響を評価する手がかりになります。よく用いられる手法として、質量分析(MS)や核磁気共鳴(NMR)などの技術が使われ、サンプル中の代謝物を高精度で検出・測定します。
プレスリリースURL
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2024/pr20241216_3/pr20241216_3.html